続・残留意識

著:中島勝大:2008.7.20
憶えているだろうか。僕がこんなエッセイのような文章を書き始めた頃、確か2作目だったと思うが、「残留意識」という文章を書いたと思う。子供の頃、夏休みの宿題の1つに、読書感想文というのがあり、ある夏、僕は、井上ひさしさんの「ブンとフン」という小説を読み、感想文を書いた。なぜこの本を選んだのか。おそらくタイトルが変わっていたから、きっとおもしろいのだろうと思って買って来たのだろう。内容は、小説家のフン先生の周りに、ブンという、得体の知れない者が現れ始め、いろんな騒動が起こるという、少しSFチックなものだったと思う。どんな感想文だったかというと、そんな楽しい不思議な世界に憧れを持ったというものだったと思う。その感想文に対して、先生から何の意見も、評価の言葉もなくて、とてもがっかりした。その結果、読書自体にも興味を失った僕は、翌年まで新しい本を読まず、次の年の感想文に同じ「ブンとフン」の感想文を書いたのである。1年経っていたので、内容も少し深い所まで書いたと思うが、不思議な世界に憧れる内容に変わりはなかった。そして又しても先生から何の意見も評価ももらえなかったのである。なぜ2年続けて同じ小説なのかという注意さえも。それ以後、30代半ばまで、文章を書く事をほとんどしなかった。だから「トビウオ」が生まれて初めて書いた詩である。「トビウオ」を書くまで僕は、僕の書く文章、想いは、誰の共感をも得るものではないと思い込んでいた。2度も書いたのに先生に興味を持ってもらえなかった事が原因である事は明らかである。その後、井上ひさしさんの作品数冊と、カフカの「変身」という小説を読んだと思う。その頃の僕は、カフカという作家名さえ知らず(今もあまり変わらないが)その「変身」というタイトルの不思議な響きに興味を持って買ったのだ。どうも、タイトルに弱いらしい。最近、と言っても去年だが、「パラシュート」というタイトルを新聞で見て、その作家が、「リアル鬼ごっこ」という小説で大ブレイクして、とても有名なのを知らずに買って、おもしろくて続けて3冊読んだ。「リアル鬼ごっこ」は僕には哀しすぎた。また話がそれたが、“残留意識”という言葉は、子供の頃読んだ数冊の小説の中に出て来た言葉である。僕が書いた「残留意識」は、死んだモノ達の意識が留まり続けたら、道を歩くのもたいへんだというものだったが、もともとの意味は、死んだモノだけではなく、その場所から他へ移動したモノの意識や思考が、しばらくの間その場所に留まり、そこに来たモノがそれを感じるというものだった。その感覚は原始的でもあり、未来的でもあったと思うが、具体的にどんな設定だったかは憶えていない。ただ、五感以外の感覚でそれを感じるというものだった。「残留意識」を書いた頃の僕は、テレビの心霊番組を見ただけで、お風呂で頭も洗えないくらいの恐がりだった。それがここ数年、幻聴から始まり、さまざまな不思議な体験をした僕は、今でこそ幻聴もないが、それらの体験に慣れてしまって、見えたり、聴こえたりしないのが、淋しいくらいである。あの恐がりだった僕が、今は真夜中にお墓に行ったとしても平然としていられるだろう。なぜなら、もし何か見えたり、聴こえたりしても、それは決して、死者のものだけとは限らないと思っているし、それがどこであっても、自分の周りには、あたたかいモノも、感情的なモノも、愛情らしいモノさえも、たくさんのモノ達で包まれていると思えるからである。その時々によって、見えたり、見えなかったり、聴こえたり、聴こえなかったりするだけだと思う事が出来るようになったのだ。そして、それらは、人間だけとも限らないという事。動物や植物、音楽や水、空気自体の意識、心達であろうと思えるのである。過去、現在、未来、時空を超えて僕を包み続けるだろう。